【高音が出ない…】訴える声以外の声を聞き続けた。ーWORLD VOICE代表 日山 たかし

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【日山 たかし -WORLD VOICE代表】1983年9月生まれ、講師歴20年。札幌時代 SONY「福原美穂」輩出トレーナー谷藤氏弟子として従事。「Backstreet Boys」プロデューサーTOMIより新人シンガー養成オファー / 海外アーティスト(アメリカ、イギリス、スロバキア、韓国、フィリピンetc)、大手メジャーアーティスト、現役プロシンガー、タレント、声優、大手プロダクション所属アーティスト、声楽家、講師に「洋楽ボイス理論」を提供 / 29歳『爆発的な歌唱力』のSTARS10名、WORLD VOICE講師養成開始(全国合計24名)/ 大手韓国プロダクション新人養成講師として推薦スカウト / 「輝きを取り戻す100年継がれる理論」をモットーに20年に及ぶの研究の末、洋楽ボイス理論を開発。10年、20年、30年と悩む症状さえも解決するも、現在も研究、更新中。

シンガーとしての質問

2tトラックで上京…慣れない土地でCD売上を積み重ねたシンガー時代。

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ーー歌との出会いやきっかけを教えて下さい。

もともとバンドでベースやドラムを担当していました。

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ベース、ドラムを演奏していたが、ボーカルに転向することをきっかけにギターを演奏する機会が増えていった。

17〜18歳の時にボーカルが脱退してしまい、当時のマネージャーさんから『隆がボーカルやったら?歌えるっしょ?』と言われ、その時からボーカルをやり始めましたのが歌をやるきっかけでした。

ーー北海道時代の一番の思い出や出来事はなんですか?

地元札幌のボイススクールで生徒として一緒だったChieさん(現在の妻)と出会いライブやラジオ、雑誌の出演など共演することも多かった彼女と出会ってから1〜2年で活動の拠点を東京に移すため2トントラックに2人の荷物と夢を詰め込んで、2人で上京してきたことです。hiyama-white-42長い距離を運転しながら「これからの長い人生、何があっても彼女と共に2人で頑張ろう」と、密かに心に誓っていました。

ーー当時どんなことに悩んでいましたか?

上京後の慣れない生活と、なかなか上手くいかない活動に焦りを感じていました。

生活面としては、僕が家事と週2〜3回のアルバイト、彼女はフルタイムで働いて僕の活動をサポートしてくれていたので、早く音楽活動を軌道に載せていきたいという思いが強かったですね。hiyama-white-43活動面は最初、シンガーオーディションを受けても受からないことや、少数のファンの方がいても歌ってもお客さんが増えないなどの悩みや焦りを感じていました。

20代の時『TAKAHIRO』さんが合格した時のEXILEオーディションを受けたことがあります(笑)

ーー悩みが解決するまでにどれくらい時間がかかりましたか?

2〜3年程だったと思います。

音楽活動を続けていくと、ライブではお客様がCDを購入してくださったり、コアなファンの方が一気に10枚、20枚買ってくださったり。CDを作っては無くなり、また作ってライブで売れば足りなくなってまた作って売る。という事態になってその頃、アルバイトとしてCD制作の内職をやっていました笑

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当時手売りしていたCDや楽曲参加した作品

ライブを見ていただいた方からのレッスン依頼も増えていって悩みが解決していったと思います。

ーー当時北海道に住んでいましたが、上京しよう思ったのはなぜですか?

いろんな理由はありますが、その中の一つをあげるとしたら、伊藤英明さんが所属していらっしゃる『A-team』という事務所のオーデョンに合格をしたというのがあります。

『合格したので東京にお越しください』と。

2005年に上京してから、音楽活動ができると思ってレッスンも頑張っていましたが、事務所は『戦隊ヒーロー』『モデル』『俳優』『エキストラ』などのオーディションなどを押し進めてくることが多く、俳優などの活動にはあまり興味なかったので、俳優オーディションに参加することを辞め、音楽活動を独自で切り開いて、CD制作の内職やレッスンの仕事をするまでに至りました。

講師としての質問

わからないことがわからなくても見つけ出す…熱意によりレッスン生が増えていった個人スクール時代。

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2011年に制作していた教材。製作途中で方向性の違いから制作を断念

ーーどうして講師業をやろうと思ったんですか?

「教えている」とは言えないレベルでしたけど笑

ーー洋楽ボイス理論を構築しようと思ったのはなぜですか?

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完全に趣味で興味本位からでした。

なんで、海外のアーティストのような歌を日本人は歌えないんだろう?

同じ人間なんだから、できないはずがない。

と思って、歌う方の活動とは別に、歌う以前から趣味で理論を研究、実践、構築することをしていました。

まさかその理論が、教える仕事を通して『たくさんの人に役立つものになる』とはあの頃は思いませんでした笑

趣味が、仕事になる。なんて本当にそんなことがあるのか!?と自分自身びっくりしています。

ーーL.P.T.C開業当時、どんな悩みを持った生徒さんが多かったですか?

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当時から男女関係なく高音に悩むシンガーが多かった

圧倒的に、高い声が出せないことに対してですね。

あの頃はまだ『高い声でも地声』と呼ばれたり、高い声を出せる人は才能でできない人はできないもの』と認知されていたと思います。

ネットなどの一部では『ミックスボイスというものがあるらしいぞ、なんだそれ?』という時代だったと思います。

ミックスでも「表声ベース」か「裏声ベース」かもわからず、ミックスだけど高い声を出すのが辛い人と、高い声が出せず、地声と裏声が別れてしまう『分離型』の方それぞれいらっしゃいましたが、どちらも『高い地声(声)が出しづらい』と悩んでいらっしゃいました。

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ミックスボイスを出しているのに、ミックスが出せなくて悩んでいます。と訴えたり、地声発声なのに、『音色がミックスに似ているから、できていると思うんですが、高い声が出せないんです。このまま高い声出すにはどうしたら良いですか?』など、誤解から生まれるお悩みを持たれる方もたくさんいらっしゃいました。

その後、数年にわたり『これはミックスですか?』『これミックスできてますか?』『ミックス判定お願いします』という書き込み、お問い合わせが多かった時期でもありましたね。

ーー当時、どんなことを大切にレッスンを進めていましたか?

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当時制作していた教材にはNAMI(現connect)も生徒として参加していた

4つありますね。

①生徒さんが訴える声以外の声を聞く
表面的な悩みではなく、根元となっている悩みや原因を見つけ出そうとすること。

②わからないことがわからなくても見つけ出して解決する
生徒さんが言葉で表せないものを感じ取り悩みを解決すること。

③誰でも習得できるよう生徒にあったステップを作り「あとはやるだけ」にしてあげる
課題を解決するために、具体的にどんなことをやれば良いかメニューを作り出すこと

④相談があればどんなことでも時間を設け、一人ひとりと関係を深める
電話やメール、対面でセッション以外で相談を受け、夜中になることも。

⑤セッション時間が過ぎてしまっても、きりが良いところで終了させる。

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5つだった…(笑)

ーーL.P.T.C時代の印象に残っている出来事はなんですか?

印象に残っている出来事は、本の出版やDVD販売など出版社様からいくつかオファーをいただき途中まで作りましたが、どれも最終的にはお断りをして何一つ代表的な書籍が残っていないことです。

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当時制作していた映像教材。意向の違いから制作を断念。

辞めた理由が、販売側と制作側の違いといいますか、

売れる形で作りたい販売側と、悩みを解決する情報のきっかけや糸口にしたいという制作側の考え方の違いがあったように思います。

これを出すことで、分からないことが出てくるからまた多くが悩むことになるなと。

今では、作って販売しなくて良かったと心から思っています。

後編記事はこちら
“最後の砦”と呼ばれるスクールへ。-WORLD VOICE代表 日山 たかし

 

https://rankup-stage.com/

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